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青果物案内

市場便り

完熟マンゴーブランド化への道

2022-05-03
連日、少し気温が低く、朝は寒いくらいですね。
お昼との気温差で風邪をひかないよう気を付けたいものです。
さて本日は、前回ご紹介した完熟マンゴーがどのようにして宮崎県の特産になったのか調べてみました。


―――――1984年、JAの技術員だった職員が水稲、野菜と並行してできる果樹を探し、沖縄県を視察。その際にマンゴーと出会ったのが始まりだった。

翌年、JAや経済連のバックアップ体制づくり、部会設立や資金の工面に奔走。西都市のわずか8戸の農家で栽培を始めた。
土壌作りから温湿度、摘果のタイミングまで分からないことだらけ。何度も沖縄を訪れ、技術指導を受けた。

「大きな実に限って落ちて売り物にならない」とマンゴー栽培が始まって間もないある日、JAの職員は生産者から相談を受けた。完熟して落ちた実を食べてみると、とびきり甘くジューシーなことに職員は気づいた。
当時は8~9割熟したものをハサミで収穫する方法が一般的だったため、新しく収穫方法を独自で開発する必要があった。

完熟して落下する実をキャッチする方法を考案したが、きれいに収穫することができず、膨大な時間と開発費を掛け専用のネットが完成。ついに県産マンゴー最大の魅力、こだわりの完熟収穫が可能となった。

しかし、果皮に黒斑が入る炭そ病や裂果などに悩まされ、台風でも被害があった。生産者の負債もかさみ、「やめたい」と言い出す人もいたが、その度に皆で励まし合い、一つずつ問題を乗り越えていった。

その後、導入を図る宮崎市や串間市、日南市などから訪れた農家に、苦労して培った栽培技術を余すことなく伝授した。

1988年8月に210㎏を初出荷。贈答用の高級果実として、初めから東京へ売り込んだが失敗。地元で再スタートを図るが、知名度も低く試食を進めてもなかなか食べてもらえなかった。

1989年、県がフルーツランド構想を策定。 産地はJA宮崎中央、こばやし、はまゆうへと拡大し、その間も生産者たちは高品質のマンゴー栽培を追求。

1993年、「宮崎はひとつ」を合言葉に、県果樹振興協議会亜熱帯果樹部会が設立。栽培技術向上のための研修会や販売戦略など「みやざき完熟マンゴー」のブランド産地化を目指した。

1998年には糖度15度以上1玉350g以上などの独自基準をクリアした最高級品「太陽のタマゴ」が誕生、ブランドの付加価値をさらに高めた。

2005年9月6日、本県を台風14号が直撃。未曽有の豪雨で西都市の三財川の堤防は5か所以上が決壊。濁流は流域の田畑やハウスを一気に飲み込んだ。1面湖と化した場所もあった。
被害を免れた部会の仲間たちは応援を呼び掛けた。県内各地の生産者、経済連、県や市の職員が駆け付け、マンゴーの葉を1枚1枚丁寧に洗っていった。一人も離農することなく、再興に懸けた。

2007年、東国原知事が就任し、「みやざき完熟マンゴー」がテレビなどで紹介されると、全国から注文が殺到。しかしその反面、ブームを悪用した他県産や輸入物とすり替える偽装が発生し、風評被害を受けた。
対策として、糖度を測る光センサー選果機や、生産情報を果皮に直接印字する機器の導入など、ブランドを守る取り組みが始まり、その結果、厳格な独自基準をクリアした最高級品「太陽のタマゴ」は市場や消費者の信用が高まった。さらに、生産情報が明記されることで、生産者のブランド意識も上がった。―――――


このようにたくさんの壁にぶつかりながら、JAや生産者、県が一体となってブランド化を目指したために、現在の「太陽のタマゴ」が出来たそうです。

さらに、見た目も味もいいものを作るには手間と高い技術力が求められ、20年以上マンゴーを栽培してきた生産者でも「何年経験しても難しい」と感じているそうです。

生産者が苦労して作り上げてきた特産品は地域の宝です。地元の特産品を大切にしていきたいと思いました。

参考資料として
・宮崎日日新聞HP「みやざきマンゴー物語」上、中、下
ネット上で見ることができます。

株式会社小林青果市場
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